「反対は、自分でね」

 

 今でこそ、長期休暇のたびにいそいそとネイルサロンに通うわたしであるが、大学を卒業するまでずっと深爪だった。ものごごろついた時から爪を噛む癖が治らなかったわたしの指は、いつもささくれでぼろぼろだった。今思えば軽い自傷行為だったと思う。血が出るまでささくれを剥いた。血が出ると、どこか安心感にも似た感情が生まれ、満足して絆創膏を貼った。そんなわけで、わたしはいつも絆創膏を持ち歩いていた。これから話すのは、そんなわたしの、冬の宝物。

 

 冬のある日、もう少しでピアノの試験というときに、その人がわたしの練習室に入ってきた。「どう、調子」その人がドアを開けたから部屋の温度は少し下がったはずなのに、暖かく感じた。実は少しだけ、あなたが来るのを待っていた。わたしは、答えた。「まあまあかな」その人が、わたしの手の絆創膏を見つけて言った。「滑らないの、それ。」

 わたしはもう古くなり始めていた絆創膏を剥がしながら答えた。「まあ、いつものことだから」少し不機嫌になりかけていた。見られたくなかった。「ふうん。かわいそう」わたしは慌てて後ろを向き、手を隠した。「わかってるよ」もともと手が小さく、指先も丸い不恰好な手で、わたしはそれらがあまり好きになれなかった。ささくれや深爪でさらにぼろぼろで、そんな手が恥ずかしかった。

 「ごめんごめん、ちがうって」その人がごく自然にわたしの手を取って言う。

 「ほったらかしにされてかわいそうっていう意味」普段わたしは他人に触れられることに抵抗があるが、そのときは不思議と嫌悪感はなかった。手に取ったわたしのささくれや深爪をまじまじと見ながらその人は続けた。「クリームとか、塗らないの」わたしの手を見つめるその人の睫毛が長い。どきどきしているのを隠したくてそっけなく答える。

 

 「買ったことない。べたべたするのが嫌で」「嘘」「本当だよ。だってピアノが弾けなくなっちゃうし」「ふうん」その人と目が合う。やめて。見ないで。「じゃあ、これあげるよ」そう言って、その人はわたしの手をそっと離し、黒のリュックの小さなポケットから、クリームを取り出してわたしに差し出した。「いいよ。塗り方も知らないし。使わないかも」わたしは目をそらして言った。手を、離さないでほしかった。「うそ」その人がくすくす笑う「そんなことある?」そう言って、その人はクリームの蓋を開けた。ぱちん、と小気味いい音。「こうやってね」と、その人は説明しながらわたしの手をまた取った。「まず手の甲に出す」均等な太さの、白いクリームがわたしの手の甲に乗る。すこし冷たい。「で、塗る」わたしより大きな両手で、わたしの左手に擦り込んでいく。「特に爪のはえてるところが大事」そう言って、指の一本一本を、丁寧に包んだ。冷たかったクリームは、その人の体温で溶けて、わたしの手にすぅっと馴染んでいく。息が、止まりそう。ずっとこうしていて。

 

 

 「はい」

 

 

 はっと、その人を見ると、その人は美しく笑った。

 

 「反対は、自分でね」

 

 それから、わたしは毎年同じクリームを買う。

あの日の思い出は、わたしの冬の宝物。