Instagram発「自叙伝紙芝居」に感情移入してみた

 思えば、あのころは、自分のために毎日を生きていた。今は、気がついたら1日が終わる。今のわたしは、他人のために、1日駆けずり回って、這いつくばって、気がついたらもう夜。片道1時間の通勤路。脳を使わずに運転する車の中で、ため息をつくことしかできなくなってしまった。

 他人に振りまわされて、そんな日常が繰り返されて、どんどん上書きされていく。人生の中で、自分のために生きていた時間の割合がどんどん減っていって、自分という生き物が、どんどん磨耗されているのを感じるとき。

 「このままわたし、なくなってしまうんじゃないか」って思う。

 

 だから最近、Instagramで自叙伝紙芝居がやたらと流行る理由がメッチャわかる。

 自叙伝紙芝居っていうのは、いまとっさに思いついた悪口なんですけど。

 

         《まるまる君編〜なれそめ〜》

 

 ってやつ。よくあるよね。いやあるから。ある前提で聞いて。

 

 いや、「編」って何よって。意味わかってつこてんの?って。背表紙編むほど綴らへんやん?いうて、この投稿で完結してまうやつやん?スワイプしてね→って、いうほどスワイプさせてくれへんやん?つうかインスタの仕組みもうみんなわかってるから大丈夫よ?そう、そこの「王道、少女漫画」派。おめめキラキラ、手足スラー。自分に対して「ふわっ」とか「はむはむ」とか「ぽっ」とか「???」とかを躊躇なく使ってヒロイン感を演出するやん?とにかくキュンキュンさせたいやつやん?n番煎じのストーリーにガンガン自己投影していくわりに、心理描写の雑さが玉に瑕なお前のことやで。かといって「自分を美化する勘違い野郎とは一味違いまっせ」派、わきまえてます感を出してきて逆に鼻に付く場合があるよ?ふつうにえげつない描写とかもデフォルメの力で乗り切つつ、赤裸々に語るこのわたしの面白体験談どうよ!?バーン!!つってな?ほんでその亜種よ。「もう人間にするといろいろめんどくせぇから動物でいきますわ!」派の人。お前の魂胆わかってるからな?自分をうさぎとか猫にしてる時点でお察しやから。あと、「絵本風な絵柄でほっこり感を演出しつつ、日々のささやかな幸せを丁寧に描きます」派もウゼェ。もろともウゼェ。

 

 …って思ったりしながら、冷ややかな目で見ていたわけさ。漫画として読むには雑で、日記として読むにはいささかドラマチックな、あの自叙伝紙芝居。ドラマの大ジェスト版というにはたいしたことは起こらない、あの自叙伝紙芝居。そう、ピンときた?

 

 これって全部、全部、ぜーーーーんぶ、「わたしが、わたしのためだけに生きた記憶」だったんだ。つまり、大切だったはずの昔の恋愛とか、大切だった言葉とか仕草とかその時の気温とか天気とか、そういう、きらきらした何かを、何回でもいつでも思い出せるように、なかったことにさせないように、アウトプットして、披露して、証拠にして、残して、そう、大丈夫わたしは、わたしの人生はつまらないものなんかじゃなかったって、言い聞かせて確認してるんだ、って、わかってしまって。

 

 もし「自分のためだけに生きた記憶」がどんどん薄れてって、なかったみたいになって、自分のきらきらも美しかったはずの思い出も全部なくなって、そしたら、わたしもなくなるのかなって。こうして消化試合的に進んでくのかなって、すごくセンチメンタルな立冬

 …はあ、わたしみたいな人っていっぱいいるんだろうな。

 (マグカップに入ったココアをふうふうしながらもちろん萌え袖で)

 

 紙芝居のひとつひとつの内容には感情移入しないけど、それを書いている人の今のしんどさっていうか、やるせなさっていうか、この安定感の退屈さっていうか、そういうものにはすごく共感してしまって。なんや、いっしょやんけ、って、思うなど。

 で、だいたいそういうのには「絵の練習として書いていきます!」とか「大好きな人たちの話です」とか書いある。自叙伝を披露することに対する気恥ずかしさから、なんとか理由をつけて逃れようとしているんだよね。その、気持ちも、わかる。わかっちゃう。

 

 で、わたしがこのブログを書いてるのもだいたい同じ理由だから、「自叙伝紙芝居」って、悪口を言っている場合じゃなかったりするんでした。いえーい。