歩み寄って、離れて

 今日はその人の舞台を見に行った。いつもと違う舞台で、いつもと違う演者に囲まれての舞台だったので、萎縮しやしないかと心配したが、その心配は無用だった。いつも通りのその人の舞台だった。良い意味でも悪い意味でも、いつも通りだった。

 その人の舞台を見て、安心して、同時に嫉妬した。少し前までは同じ方向を向いていたと思っていたのに、二人の今は、こんなにも違う方向を向いている。そのひとの行く道のほうが、わたしのこの道よりも輝いて見えた。自分が、かすんだような気がした。そして、そう感じた自分にいらついた。

 

 思えば、わたしはその人と一緒に成長してきた。わたしたちはいつも近くにいて、いろんなことについて話した。大抵の場合、わたしは声をつかって話すよりも筆談やメールを好んだ。方言が抜けきれないわたしはそのことを少なからず気にしていたし、もともとの言い過ぎる性格を自覚し始めていた。そして文字で伝えることは、その両方を和らげると信じていた。反対に、その人は筆談やメールを好まなかった。その人は単語で会話をしようとするきらいがあり、筆談やメールの場合もそのスタイルを貫いたため、その人の言葉はまるで暗号だった。わたしは主語や目的語がない曖昧な文章のなかの、含まれた意図を読み取ることが本当に苦手だったため、文字での会話はお互いをいらつかせた。

 

 その人と話すと、違う自分を見ているようだった。言葉の不器用さや思考の幼さが似ていた。どちらかが話す時、もう片方は兄または姉、時には親のような気持ちで片方の話をきいた。ふたりとも、下に何人かの兄弟をもっていた。

 困ったことき、だれかに肯定してほしいとき、とにかく聞いてほしいとき、お互いを頼った。でも、必ずしも、自分の求めている答えを言ってもらえるとはかぎらなかった。お互いに自分の意見をはっきりと相手に言ったし、相手の主張を全否定することさえあった。それでも、わたしたちはお互いに話をすることをやめない。

 そうしていくなかで、わたしは少しずつやさしいものいいをするようになり、その人は少しずつ明確な文章を書いて寄越すようになった。わたしたちは今も、一緒に成長している。

 

 わたしは、いまでもその人を頼る。その人もわたしを頼る。

 その人の次の舞台は、多分わたしは見られない。その人が客席を向く時、わたしも別の小さな聴衆に語りかけているだろう。形は全く違う。でも本質は変わらない、そう、信じている。

 

 

2013/8/21